名前
原 雅廣さん
職業
大和電機工業株式会社(やまとでんき)代表取締役社長 | NPO法人匠の町しもすわあきないプロジェクト 専務理事
概略
1964年、諏訪市生まれ。大学卒業後にテレビ番組制作会社、工業用材料メーカー勤務を経て、1994年にUターン。

下諏訪町は、江戸時代は宿場町、戦前は製糸業、戦後は精密業の町として発展してきた歴史を持ちます。戦後は「東洋のスイス」と呼ばれ、セイコーエプソン、三協精機、ヤシカといった企業を中心に、時計・カメラなどの精密工業が町の産業を支えてきました。現在も町内に約70の精密系企業があり、「ものづくり」の町として発展を続けています。

そんな下諏訪町には明治44年(1911年)に誕生した御田町商店街という商店街があります。明治後期から、大正、昭和の時代にはたくさんのお店が立ち並び、下諏訪町の消費活動を支える中心的存在として発展してきた場所です。
しかし平成に入り、全国的にも商店街の衰退が問題となる中、御田町商店街も例外ではなく、2000年頃には約30店舗あった商店街の半数が空き店舗になりました。これを危惧した町民たちが主体となって立ち上げたのが「NPO法人匠の町しもすわ・あきないプロジェクト」(以下「あきないプロジェクト」と表記)です。町内外の人を巻き込みながら、自分たちでテナントの誘致やリノベーションを進め、空き店舗を20年かけてゼロにまで減らしていきました。

今回は、町内に本社を構える大和電機工業株式会社の代表取締役であり、あきないプロジェクト専務理事でもある、原 雅廣(はら まさひろ)さんに、下諏訪町のまちづくりの取り組みについてお話を伺いました。

文化に昇華されるものを、商店街から生み出したい

―原さんの生まれやキャリアについて教えていただけますか。

生まれは下諏訪ですが、高校3年生の1年間アメリカへ留学したことがきっかけで、卒業後は神奈川県の大学に進学しました。そしてそのまま、東京で就職しました。テレビの制作会社で働いたのちに、金属系のメーカーで営業マンとして働いていましたが、1994年30歳の時に家庭の事情でUターンすることになり、大和電機工業に入社しました。

―原さんは現在大和電機工業の代表取締役社長でありながら、「あきないプロジェクト」の専務をされています。まちづくりに関わることになったきっかけは何だったのでしょうか。

まちづくりに関わったのは、2002年に当時の高橋町長が町内外の人たちと自由に町政の課題を議論する「下諏訪はってん100人委員会」に参加したことがきっかけですね。ローカル誌で募集を見つけたとき、これは面白そうだなって直感的に思ったんですよ。その後、メンバーとして商店街活性化をテーマに議論するグループに入って、そこで御田町の人たちと知り合いました。最初はたった5人で始まったグループでした。

―最初はどんな活動から始められたのでしょうか。

具体的には空き店舗を改修して、新しい店舗を一軒自分たちで作っちゃおうというところから始まりました。予算は10万円でした。ちょうどその時に、商店街の仲間経由で小津安二郎監督の映画に出演された女優さんの着物の反物を織っていた「あざみ工房」さんから御田町で開業したいという申し出があったんです。そこで、集会所として使っていた拠点をみんなでリノベーションして、店舗にして貸し出したのが最初の活動です。
当時はリノベーションという言葉も珍しい時代でしたが、自分たちで手を動かして、場所を作って、いい人が入居するという循環を繰り返していくと、周りの人たちの目が徐々に変わっていきました。そうか、こういうことをしたかったのか…と理解してもらえるようになったんです。
それで活動の幅を広げるために「下諏訪はってん100人委員会」から、「匠の町しもすわ・あきないプロジェクト」に改名しました(後に、NPO法人化し「下諏訪はってん100人会議から独立)。

あざみ工房のリノベーションの様子。リノベーション経験者の御田町のパン屋さんが講師だった。奥には機織り機が見える。

―「下諏訪はってん100人委員会」と「あきないプロジェクト」の違いは何でしょうか?

空き家のリノベーションとテナント誘致を経験して、何をコンセプトにまちづくりをしていくのか?ということを改めて考えることになりました。そんな中で偶然、町内の博物館が実施する時計づくり体験に根強いファンがつき、多くのリピーターが訪れているとの記事を読んだんです。その時に、「やっぱり、ものづくりの原点に立ち返りたい」と思ったんですよね。
あざみ工房の時も考えていたことですが、諏訪地域は元々ものづくりの町です。しかし諏訪でかつて栄えていた時計産業は、工業化と大量生産の流れを受けて、パーツしか作らなくなった。そのため私たちは時計という完成品を作る技術を失ってしまいました。大量生産の循環に組み込まれてしまうと何も残らないんです。
そういう結果を見てきたので、「文化に昇華されるものを作っていきたい」という思いが改めて強くなったんです。
だから商店街も、ものを売る場所というよりは、ものづくり体験など“価値を売る場所”であってもいいんじゃないかって。ここでしか手に入らないモノや体験を提供する場所と捉え直すことで、商店街がよみがえるかもしれないと。
こういった想いのもと、あきないプロジェクトでは、御田町商店街のおかみさんたちが空き店舗の開拓や家賃交渉を担い、私たちは店舗の改修や工房の誘致といった活動を続けてきました。

しきり役を置かない まちづくり

―日々の地道な活動を続けながら、町内外の人も巻き込んでさらなる賑わいの創出のために行ったのがクラフトマーケットだったそうですね。初回の開催時には2日間で1万人もの人が集ったと聞きました。初回とは思えない規模ですよね。

それは、こちらも驚きましたよ(笑)
諏訪エリアは工業の町で、「ものづくり」が強みですから、イベントをするなら、大手量販店のようにモノを仕入れて売るのではなくて、そこに来ないと買えないモノや、できない体験を売ることに特化したクラフトマーケットをしたらどうだろうと考えたんです。開催場所も、下諏訪のものづくりの原点は生糸だから、下諏訪倉庫という明治33年に建てられた生糸の原料である繭の倉庫をあえて選んで。
当時、隣町の富士見町には日本装飾美術学校という学校があったので、そこの人たちにも声をかけて出店してもらいました。今でこそマルシェはどこでもやっているけれど、当時はなかなか珍しいイベントだったんですよね。2日間で1万人のお客さんが来てくれました。これを数年間、形式や場所を変えながら続けました。

―ここまで大規模なイベントとなると、企画や運営が大変なのではと思います。それは全て原さんが?

信じられないかもしれないですが、実は誰も仕切人を置かずに、このイベントは行っていたんです。様々な人が集まると世代差も含めて、組織運営は難しくなります。だから最初から「やりたい人・やれる人」だけでやればいいと考えました。大前提の情報や人材は共有しますが、それぞれの細かなことは「この指とまれ」でやりたい人がやる。「餅は餅屋に任せる」という方式です。このイベントが、翌年から現在も続く下諏訪町で春秋に実施している『ぶらりしもすわ三角八丁』に繋がっていきます。
御柱祭りも、誰か仕切っている人がいるというわけではないんです。それぞれが、それぞれのエリアで考えたことを持ち寄って、実行して成立するお祭り。そこにヒントがありました。最初のクラフトマーケットから今まで、この形式でまちづくりを進めてきたんです。

御田町商店街のmee mee center Sumebaの前で。この物件も貸し出すために、プロから指導を受けて、原さんたちがリノベーションした。
できることから始める 地道に続ける

―クラフトマルシェは大成功に終わりましたが、その後、あきないプロジェクトの活動はどう発展していくのでしょうか?

イベントは見栄えがいいですが、あくまでも手段。自分たちで物件を取得して、リノベをして、入居してもらうという仕組みと、それを一緒に取り組む仲間を実直に作り続けてきたんだと思います。ようやく、まちづくりができるようになってきたなと実感しているんです。
この20年の活動を振り返ってみると、あるものを使って、できることから地道に進めていくこと、そして情報と人脈を関わっているメンバーで共有すること…これが大切だった気がします。

―こうした地道な積み重ねを通して2000年代初めに半数が空き店舗だった商店街が、ゆっくりと着実に埋まっていったんですね。

そうですね。口コミや人とのつながりによって、ものづくりを中心に開業する移住者の方は増えていきました。今ではもう行っていませんが、御田町商店街の移住者のみなさんのブランドを東京の六本木で展示販売をするということもしていました。モノを売りながら、町のことも知ってもらう活動。「こんな素敵なモノを作っている町や人なら、会ってみたい」と下諏訪を訪れるきっかけを作っていきました。

また2015年に移住してきた斉藤希生子さんが経営する「マスヤゲストハウス」も、移住の流れを加速させましたね。ゲストハウスのリノベーションの際には県内外から約120人の人が参加しました。これをきっかけに下諏訪町に興味を持ってきてくれる人が、さらに気の合う仲間を連れてきてくれるという循環が生まれました。今も、マスヤさんは下諏訪町の情報交換や滞在の場所として、欠かせない場所です。

外から町を訪れた人が、移住するかを判断していく上では御田町商店街のおかみさんたちの集まり「みたまちおかみさん会」という存在も大きかった。おかみさん会による良い“お節介”が移住者と商店街を繋いで、御田町でスムーズに暮らしや仕事を始められるようにしてくれています。移住して初めの頃は食事のことや、子どものことなどちょっとしたことで困る場面も多々あります。そんな時に、そっと力になってくれるのが彼女たち。「困ったら、まずはおかみさんに相談してみよう」と、みなさん頼りにされています。

スヤゲストハウス。昼夜問わず、旅行者や町の人で賑わっている。
移住者の変化とこれから

―最後に原さんから見て、この20年の移住者の変化はありますか。また、今後チャレンジしてみたいことがあれば教えてください。
人が人を呼んでくるという好循環は変わっていないと思います。あと、移住してくれる人たちは、下諏訪町の人との距離が近いところや、お節介なところ、下町っぽい雰囲気に抵抗がない人が多いように思います。私は御田町を中心に活動をしていますが、移住の裾野は湖側なども含めて下諏訪全体に広がっているように思いますね。
時代も変わり、まちづくりも、自分たちのやり方から次の世代へと移り変わっている。でも、それでいいと思っているんです。まちづくりに大切なのは持続性です。空き店舗を埋めることが目的ではなく、循環していくことが大切。移住してきた人達が地域の人たちと協働してコミュニティの担い手として活動している様子を見ると頼もしいなと感じます。やりたいことがある人が、やれるように整えること。それを見守ってサポートしていくこと。今後の役割は、それに尽きるかなと思います。

原 雅廣さん

大和電機工業株式会社(やまとでんき)代表取締役社長 | NPO法人匠の町しもすわあきないプロジェクト 専務理事
1964年、諏訪市生まれ。大学卒業後にテレビ番組制作会社、工業用材料メーカー勤務を経て、1994年にUターン、2002年に発足した「しもすわ100人委員会」に参加したのがきっかけで2005年にNPOを設立。母、妻との3人家族。