下諏訪町には明治44年(1911年)に誕生した、御田街商店街という商店街があります。明治には製糸工業、戦後は精密工業で栄えた下諏訪町の生活を支え発展してきた商店街です。最盛期には、商店街の端から端まで人が埋め尽くし、お店が休む暇もなかったほどの盛況ぶりだったと言います。
しかし平成に入ると、年中無休のスーパーマーケットやコンビニエンスストアといった商業施設の発展や、通信販売等の販売方法の多様化などの影響で、全国的に商店街の衰退が問題となります。御田町商店街も例外ではなく、2000年頃には約30あった店舗はその半数が空き店舗になりました。その翳りが見え始めた頃、「このままではいけない」と立ち上がったのが、商店街のおかみさんたちで始めた、「御田町おかみさん会」です。
NPO法人「 匠のまち しもすわ・あきないプロジェクト」をはじめ、商店主ではない町内外の人たちも巻き込むことで、自分たちでは気づかないアイデアを柔軟に取り入れながらテナントの誘致を進め、空き店舗を20年かけてゼロにすることに成功しました。
今回は、御田町おかみさん会の河西 美智子さん(かさい みちこ)さんに、おかみさん会のこれまでの活動と、これからについてお話を伺いました。
御田町 おかみさん会の始まり
―河西さんは下諏訪町のご出身ですか。
長野県の辰野町出身です。下諏訪町の保育園に就職したことをきっかけに下諏訪町にきて、昭和48年にこの町で結婚しました。結婚してからは、御田町商店街にある「ステップ河西」を夫と営んできました。すてっぷカサイは夫の祖父母の代、明治44年に開業したので、御田町と同い年なんですよ。
―そうだったんですね。河西さんが下諏訪町に来た頃の、御田町の様子を教えてください。
私が来た時は、精密業が栄えていて、御田町商店街の突き当たりには、カメラメーカーのヤシカや入一通信工業といった会社の工場があり、何千人という人が、毎朝その工場や周辺の工場に向かって御田町商店街を歩いていました。私は辰野の中でも、山深い集落の出身だったので、人の多さにとにかく驚きました。えらいところに来てしまったなと。
商店街も今とは違って、肉屋に魚屋、お菓子屋、映画館、パチンコ屋、文房具店と何でもありましたね。飲み屋は、名前をあげればキリがないほどありました。とにかく精密業が繁盛していたので、工員さんの家も足りなくて、どこの家でも一間でも空いている部屋があれば企業に貸し出していましたね。私も、すてっぷカサイで働くようになってからは、休みなく働いて、毎日がお祭り騒ぎでしたよ。
―そんな中で、河西さんがまちづくりに関わるきっかけは何だったのでしょうか。
平成に入る頃には、下諏訪町にあった精密企業が成長して、大きな工場を建設するために、周辺の地域へと移っていきました。それをきっかけに、この町を去る人が増え、御田町商店街でも閉店する店舗が徐々に増えていきました。そこに危機感を持ったことがきっかけです。
御田町には元々、御田町商業会という商店街組合がありますが、当時は男性中心の活動で、女性はそのメンバーにはいませんでした。でも、「自分たちでも商店街活性化のために出来ることがあるはず」と、商店街のおかみさんたち5 〜6人が集まって、「御田町 おかみさん会」を立ち上げることにしたんです。1997年8月のことでした。
―まずは、どんな活動から始められたのでしょうか。
みんな家業しかやってきていないので、何から始めたらいいか分からなくて。でも自分たちで決めたことだから、まずは勉強しようと。その頃、「浅草おかみさん会」※という浅草で始まった婦人会が全国規模に拡大していて、岡谷や諏訪にもその支部ができていました。私たちが立ち上げた会とは別のものですが、浅草まで勉強会にいきました。その他にも、商工会議所の勉強会に参加したり、町おこしの事例を視察に行ったり。何かできることはないかと、必死でしたね。
※浅草おかみさん会:1967年に冨永照子氏によって設立。女性経営者や女性個人会員が中心となって全国の町おこしの事例やビジネスアイデアを共有する会。現在は、一般社団法人「ニッポンおかみさん会」。
―みなさんの熱意を感じます。その様子を旦那さんたちはどう見ていたのでしょうか。
昔のことなので、どうだったかな(笑)でも、お父さんたちも「やってみなよ」と背中を押してくれましたね。立ち上げる前から、商店街を何とかしたいという気持ちや、商業会一緒に活動すると自分たちが思っていることができなくなってしまうということを伝えていたので応援してくれました。仕事の合間をぬって、接客の講師を呼んできたり、空き店舗活性化の勉強会をしている様子を見て、やらせるしかないと思ったんじゃないですかね。
あせらず、ゆっくりが一番の近道
―こうして立ち上がったおかみさん会ですが、最初から活動は順調だったんでしょうか。
そんなことは全くなくて。最初は自分たちで空き店舗を使ってみたんです。イベントをしたりギャラリーとして活用したり。けど、なかなか上手くはいきませんでした。空き店舗は借りたい人に上手く使ってもらうことが大切なのに、自分たちだけで取り組んだって上手くいくはずがないんです。
その次には、空き店舗を分割して小さな区画を貸し出すチャレンジショップにすることを考えたこともありました。でも、それだと借主が自分のしたい内装にできないという制約がありますよね。そして私たちは、その人が自分のお金を出してまでお店を持ちたいのかが分からないと思って計画段階でやめたんです。
そんな時に転機が起きました。小津安二郎監督の映画に出演された女優さんの着物の反物を織っていた「あざみ工房」さんから御田町で開業したいという申し出があったんです。
ちょうど御田町の商店街活性化をしようと始まった、NPO法人「 匠のまち しもすわ・あきないプロジェクト」と協力して活動を始めたところだったので、私たちは集会所として使われていた場所のオーナーさんに物件を貸してもらえるよう掛け合い、匠の町は地域の人を巻き込んでリノベーションを進めました。こうして空き物件を1つ貸し出して、店舗にすることに成功したんです。
この1店舗目の開業は、自分たちにしか出来ないことに気づくきっかけとなって、その後の活動にもつながっています。オーナーさんも、商店街が賑やかになればいいと思っているものの、人に貸してしまうと、自分の物件がどうなってしまうんだろうと心配なんです。
―おかみさん会が、オーナーさんと借りたい人の間に入るわけですね。
そうですね。最初のうちはオーナーさんに安心してもらえるよう、私たちが借り受けて、開業したい人と転貸借契約を結ぶ方法をとっていました。店舗が開業する時には、借主さんの周辺へのご挨拶にもついて行ったりして。そうやって、開業したい人と商店街の人と結びつけていったんです。
―オーナーさんの理解を得るためには、時間もかかりそうです。
店舗を貸してもらうためには信頼が大切ですから、「あせらず、ゆっくり」を合言葉に進めていきました。急いでお借りして後でトラブルになったら、誰も幸せじゃないですから。
café TACがある場所は、元々お菓子屋さんで。店舗のオーナーは県外に引っ越してしまっていたのですが、年に数回掃除にくるタイミングがあったので、その度「いつかタイミングが来たら貸してください」と挨拶をしていたんです。そうしているうちに、他の物件でも少しずつ実績が出てきて、それを見たcafeTACの場所のオーナーさんが私たちを信頼してくださって、ようやく借りることができました。長かったですね。
御田町に少しでも早く馴染んでもらえるようにと思って、Café TACのオープンの時にも、商店街を一緒に挨拶をして回りましたね。事業の内容については何も言わないけれど、少しでもこの町に来て良かったと思ってもらえるお節介はしたいんですよ。
お節介を通じて、この町に暮らす幸せ
―商店街の空き家問題はもちろんですが、ここまで、おかみさんたちが頑張ってきた原動力とは何ですか。
私たちの仕事は、御田町を選んで来てくれた人に早く馴染んでもらって、生活ができるように気を使ってあげることだと思ってるんです。だから店舗を探すお手伝いもするし、開店の挨拶にもついていくし、どうしてもという時には、子どもの面倒をちょっと見てあげることもします。それって、ものすごいお節介なことですよね(笑)
下諏訪町は小さい町ですから、進学や就職で都会に出て行かざるを得ないこともあります。自分たちの子どもも、どこかの町で、必ず誰かに助けてもらっていると思うんです。だから、この町を選んできてくれる人には、自分たちが出来ることをできる範囲でする。そうやってお返しをしているんだと思います。
―最後に、今後のおかみさん会について、河西さんのお考えを聞かせてください。
今日お話ししたおかみさん会の流れができるまで、10年ぐらいかかったんじゃないかな。今の御田町には、この流れの中で開業したお店がいくつもあります。少しずつですが、移住者も増えて、子どもも増えて、いざという時には商店街の先輩たちが子どものお世話をしてあげるなんていう光景も見るようになりました。
私たちも年齢を重ねて、おかみさん会がこれからどうなっていくかは分かりませんが、「この町に暮らす幸せ」を、移住者の人も、前から住んでいる人もお互いに感じられるようになっていくといいですね。
河西 美智子さん
すてっぷカサイ | 御田町おかみさん会
辰野市生まれ。1973年、結婚を機に町内の保育園を退職し、ご主人の家業であった「すてっぷカサイ」を切り盛りするように。1997年に御田町商店街のおかみさんたちと共に、「御田町おかみさん会」を立ち上げる。